東京シティオペラ協会

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ナレーションによる解説付きのオペラ公演は、東京シティオペラ協会で。

コラム・対談

手を携えて歩んだ充実の歳月 萩野 昌良

東京藝術大学卒業。同大学院終了。
長く音楽教育界で手腕を発揮。尚美学園にあって教授、理事、専門学校学院長として幾多の俊才を世に送り出した。51歳を期に翻然と演奏活動を再開。東京シティオペラ協会公演のナレーション原稿やプログラムのオペラ解説記事も担当。

1997年10月の「パリアッチ」でトニオを歌って以来、東京シティオペラ協会の重鎮として活躍し、「八っつぁん、熊さん」の表題で、ユニークで貴重なオペラ解説を残した。 又東京シティオペラ協会の公演で使用するナレーション原稿もまたことごとく萩野氏の手によるるものであった。

2009年6月28日逝去。
2009年5月の「ガラ・コンサート」(IMAホール)が最後の舞台となった。

下記文章は、2009年5月31日にIMAホールで行われた「ガラ・コンサート」之プログラムに寄せられたあいさつ文で、正に遺稿となったものです。

私が川村敬一氏の存在を意識したのは、遠く40数年前の芸大学生時代に遡る。
私は、異様な熱気と精気をムンムン発散させながら校内を闊歩する男を見た。何か人間離れしたエネルギーの固のような男がいるなあ、と唖然としたものだ。それが川村氏だった。
彼は私の一級下。学生時代は交流はなく、その後二人は共に大学院に学び、卒業してから道は分かれた。
彼は声楽家の王道を歩み、貴重なテノールとして華々しく活躍。ぐんぐん上り詰め、遂には二期会の本公演の主役を歌った。並の声楽家にとっては雲の上の人である。加えて徒手空拳で音楽院を興し、更に東京シティオペラ協会を立ち上げて、多くのオペラをプロデュースしていた。強烈な個性の為せる業である。

パリアッチのトニオを歌ってくれないか

一方私は音楽教育界に身を投じ、それなりの実績と評価を確立していたが、歌に渇望する毎日だった。50歳を期に宮仕えを辞め、よしこれから演奏活動だ、と思っていた矢先に彼から電話が入った。
パリアッチのトニオを歌ってくれないかとの内容だった。
二つ返事で引き受けた私は、錆び付いた喉を調整して初練習の日を待った。30年ぶりの再会である。顔を見て互いに、瞬時に若き日を思い出した。
そして私は歌った。
密かに自信を持ってはいたが、一流歌手を多く聴いている彼の耳に私の声がどう聞こえるか、一抹の不安があった。
「素晴らしい!」
言外にこんなバリトンがいたのかとのニュアンスを込めた彼の言葉に、
「ああ、俺はまだ歌えるんだ!」
と私は喜びで一杯だった。そして彼の歌声の凄まじさ!これぞリリコスピント!練習の度に酔いしれた。

まさに充実の歳月だった

互いの力量を認め合った時に、信頼関係は生まれる。爾来、私は東京シティオペラ協会の常連となって、数々のオペラに出演した。
そして演奏の質を上げる為に工夫を重ね、ナレーション付きオペラという方式を編み出した。原稿は私の担当である。
更にユニークなオペラ解説記事も書いて、協会の公演の典型例をつくった。まさに充実の歳月だった。

ある日の練習風景…
川村「すぐ傍でそんな大きな声で歌われたら、音程が分からなくなっちゃうじゃないか」
萩野「アアーッ!あんたにだけはそんなこと言われたくないね、それはこっちのセリフだ!」

愉快な思い出である。しかし、さしも頑健さを誇った二人にも翳りが見えてきた。だが、我々の原点は、あの若き日の意欲と情熱、そして飽くなき向上心である。これからもしっかり前を見据えて進んで行きたいものだ。ところで、ガラ・コンサートとは『祝祭のコンサート』という意味だ。この『祝祭』とは、手を携えて歩んできた我々を《祝福》するものだと、勝手に解釈している次第である。