東京シティオペラ協会

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オペラの楽しみ方

「板前と高下駄」

「板前と高下駄」

ゴム長なんぞ高価で

板前とくれば、その履物は高歯と呼ばれる白木に白い鼻緒のがっしりとした高下駄、と通り相場になったのは、一体何時の頃からなのでしょうか。 少なくとも、「戦後に出来た」なんて底の浅い歴史ではなさそうな気がします。 ゴム長なんぞと言う物がまだ存在しなかったり、高価で手に入りにくかった頃は、大量の水や、熱湯を常時使う板前と言う職業にとって、汚染や、危険を避けるには、高歯が手ごろだったことは、想像に難しくないのです。 しかし、夏はとも角、真冬の板場で素足に高歯と言うのは、これも又辛い職業でありますなあ…。 安価で丈夫、しかもカラフルな合成ゴムの進歩した今日、その高歯を履く板前さんを捜すのには困難になってきました。 二月末のデュッセルドルフは、一日中どんよりと曇ってはいるものの、木枯らし吹きすさぶ日本の冬と違い、日中は、さほど過ごしにくいとは思われなかったものでした。 フランクフルト・アム・マイン(西独にあるフランクフルト)から列車でデュッセルドルフのハウフトバーンホッホ(中央駅)に降り立った私は、駅前の案内所で、予算に見合った一夜の宿を紹介してもらい、早速新聞スタンドで購入した街の地図を頼りに、そのホテルまで約十分程の道のりを歩き、とり敢えずチェックインを済ませましたっけ。 幾つかの用件を済ます為に昼間出歩いた私は、その日のうちにシュターツ・オーパー(歌劇場)の前を二往復し、ホテルとの方角、距離感をつかんでおいたものでした。 やがて夕食を終えた私は、デュッセルドルフでの、残された最後の予定となったオペラ見学にと、ホテルを後にしました。

どこまでも続く見慣れぬ街並み

その日の上演作品、ウェーバーの「魔弾の射手」を見終わって、その感激にすっかり上気したまま、二十分程の距離にあるホテルへの帰路をたどり始めたのです。 今味わったオペラの感激を、ホテルのベッドにすぐしまい込んでしまうのは何だか勿体なく、又昼間慣れた道故さほど不安も感じなかった私は、同じ方角を目指して、一本違う大通りを歩き始めました。少々遠回りすることで、その感激をゆっくりと噛み締めることにしたのです。 昼間市電で二往復もし、また数時間前に徒歩でやって来た道です。もう道筋には何の不安もありません。 深夜の街並みを眺めながら、歩いて行く内に、少々足腰に疲れを感じ始めたのは、オーパーを出て何十分か経った頃でしょうか。 簡単にホテルまでたどり着く筈が、ホテルはどこにも見当たらず、夜目に見えるのは、どこまでも続く見慣れぬ街並みばかりなのです。 木枯らしが吹かず過ごしやすい筈のデュッセルドルフの冬も、一時間近くも深夜に歩いていると、もう身体の髄まですっかり冷え切ってしまい、オペラの感激はいつの間にか寒さと道に迷った不安と、に代わってしまっているではないですか。  「はて、これは困った事になった、ホテルは一体何処に…」
 「……。」
 「疲れたなあ、しかし寒いッ!」
 「ホテルに帰れなかったらオレ様は一体…。」
 「……。」
 「そうだ、ハウプトバーンホッホだ!ハウプトバーンホッホに行こう。そうすればホテルまでの道を覚えているだろうから。」
 「……。」
 「……。」
 「どこへ行ったらハウフプトバーンホッホなんだ…。」
 「……。」
 「ホテルに帰れなかったらボクは一体…。」
 「しかし、疲れたなあ…、ウウン寒いッ!」
 「困ったなあ…、寒いなあ…、疲れたなあ…、困ったなあ…、寒いなあ…」
たとえすれちがうドイツ人がいたとしても、当方初めての外国旅行故、全くドイツ語はしゃべれないと言う、確たる自信に溢れてしまっていては、手の打ちようもなく、唯ひたすら途方にくれるにまかせるしかなかったのです。 その時です!正にその時でした。目の前の横丁(?)から出て来た男が、何と、カランコローンと、あの、そう、あの高歯の音を響かせて歩いているではないですか。次の瞬間、全く反射的に、私の口からは、

「デュッセルドルフに高歯」

「あのう、すいませんが…」
と言う言葉が発せられていたのでした。 ドイツなのか、デュッセルドルフなのか、日本人なのか、日本語なのか何てことは、全く考えもしませんでした。 カランコローンと言う木の下駄の音は、まさに本能的にといっても過言ではない程、私を日本人にしてしまったのです。
「ウーン? 何だい?」
振り返った男は、正に日本人であり、白衣を着た板前だったのです。 「地獄に仏」ならぬ、「デュッセルドルフに高歯」でした。 その日本人板前氏にハウプトバーンホッホまでの道順を教えてもらい、程なくホテルに帰り着いたのは勿論のことです。

ゴム長でなく…

それにしても、鮮やかなイエローや、ブルーの長靴を履いた板前さんって何となく似合わないものです。 私の様な言葉の出来ない旅行者が、冬のデュッセルドルフや、ニューヨークで深夜、道に迷っても凍死しない為に、板前さんにはゴム長でなく、矢張り高歯を履いていて欲しいものですなあ…。

(このエッセイは、約30年前に川村敬一が始めてヨーロッパ旅行をした際のものです。)