東京シティオペラ協会

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ナレーションによる解説付きのオペラ公演は、東京シティオペラ協会で。

初めに

東京シティオペラ協会について

初めに

ようこそ東京シティオペラ協会のホームページへ。 これから私たち「東京シティオペラ協会」についてお話ししましょう。

私たち「東京シティオペラ協会」は、1994年3月「蝶々夫人」で旗揚げ公演を行いました。

しかしこれは突然発生したわけではなく、それまで10年近くにわたって、コンサートとしてさまざまなオペラを取り上げ、たくさんの経験を積み重ねていたのです。 コンサートで、テノールとソプラノがデュエットをすれば、自然に肩を抱き合い、手に手を取って退場しますし、テノールとバリトンがデュエットをすれば、罵り合い、切り合いを余儀なくされます。 それらを少しずつ動きを伴って歌っているうちに、それらしい衣装や小道具も工夫するようになって来たのです。

そうしてたくさんの経験を積み重ねているうちに、フランチャイズとして「ヤマハエレクトーンシティ渋谷」のメインホールを与えられました。 かつては「渋谷エピキュラス」といって、《チャゲ&あすか》や《中島みゆき》を生み出した場所です。 約200のキャパシティを持ち、一応照明設備も備えていますので、オペラを上演するには何の問題もないところでした。 私たちはここでも又多くの経験を積み、やがて前述の「旗揚げ公演」へと進んでいきました。 伴奏楽器に「エレクトーンを使用する」というアイデアは、正に私たち「東京シティオペラ協会」が先駆者となって始めたことなのです。

1960年代前半、エレクトーンという電子楽器がこの世に現れました。 その初期の頃のわが国最高の奏者の一人が、私川村の実兄・川村江一で、彼の演奏は聴くものをして熱狂させずにはおかない素晴らしいものでした。 身内に関係者がいたせいで、私はエレクトーンの歴史をずうっと見てきたのです。 そして1970年代前半のある日、兄川村江一と当時芸大の学生だった作曲家・青島弘氏のピアノにより、カルメンを上演しました。 これがこの地球上でエレクトーンをクラシック音楽に対応させた初の試みだったのです。 そして1989年「こまばエミナース」における私川村敬一のリサイタルで、エレクトーン3台を使用し、Pucciniのアリア集とG.Mahlerの歌曲「さすらう若人の歌」を演奏したのが、本格的なクラシック歌手のリサイタルでの、初のエレクトーン使用例となったのでした。 それから、渋谷公園通りに面したところにあった当時のエレクトーンシティで、「公園通りの一夜」と名づけられたコンサートが始まりました。

このコンサートは20年経った今でも続けられており、回数もすでに260回を数えるにいたっています。 こうして、本格的にオペラ活動を行うために、まず名称を現在の「東京シティオペラ協会」と名乗ったわけです。 正直のところ、初期の数年間はそれほど活発に活動が出来たわけではありませんでした。 1998年「カヴァッレリア・ルスティカーナ」と「パリアッチ」を上演したころから、今日のように活発な活動が始まったのでした。

それからと言うもの、「アドリアーナ・ル・クブルール」に始まって、「アンドレア・シェニエ」「アイーダ」「トロヴァトーレ」「リゴレット」「こうもり」「愛の妙薬」「コシ・ファン・トゥッテ」「ランメルモールのルチア」「奥様女中」「ジャンニ・スキッキ」「外套」「宮廷楽師長」等々、堰を切ったように立て続けに公演を行ってきました。 そして会場も、エレクトーンシティ渋谷以外に求めるようになり、練馬文化センターや調布グリーンホールといった大ホールや、練馬IMAホールという中ホールにも進出するように発展してきました。 そして、伴奏楽器もエレクトーンのみでなく、私たちの活動に共鳴してくれる方々が現れ、「カヴァッレリア・ルスティカーナ」「パリアッチ「魔笛」「ランメルモールのルチア」などをオーケストラ伴奏で行うことが出来るまでになりました。 こうして急激な発展を続けてきた私たち「東京シティオペラ協会」ですが、今後もますます頑張って活動を続けて生きたいと思っております。 どうぞよろしくご支援を賜りますようお願いいたします。